建学の精神
学園創立132年
今に受け継がれる建学の精神
日本が近代国家への道を
その人の名は輪島
校祖は、女性の自立の
淑徳与野中学・高等学校(昭和21年=1946年創立)ではこうした校祖の意思を、時代を超えて、まさに
さて、校祖によって始まった淑徳教育の小さな流れは、これをさらに拡大させた、学祖 長谷川良信先生の努力で、現在では、幼稚園から大学までを
学祖は女性の積極的な社会進出と、社会で担う役割の重要性について唱えた方です。
なによりも広い視野をお持ちでした。
本校では今、世界の8つの国々の高校と姉妹校関係や提携を結び、イギリスやオーストラリアへの短期語学研修、あるいは、アメリカ・オレゴン州への修学旅行の実施など、刻々と変化する時勢の流行に応じ、『国際』という舞台で活躍できる女性の育成にも力を注いでいますが、これなどは、
21世紀は女性の時代だといわれます。
進んで英知を磨いてほしい。その一方で心の
淑徳与野中学・高等学校に
校訓・女子教育・情操教育
清純 |
[中学校]常に身を清らかにし、 [高等学校]与えられた生命を大切にし、いつも身を清楚に保ち、純粋な心を大切にする女性であってください。 |
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礼節 | 誰に対しても節度をわきまえ、礼儀を尽くすことができる女性であってください。 |
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生きとし生けるすべてのものを敬い、謙虚な心を持った女性であってください。 |
女子教育 | リーダーシップを育てる生徒会活動、女性らしい身だしなみを習慣づける制服、女性としての教養を涵養する「土曜講座」、将来のキャリアを考える「進路ガイダンス」など、女子校ならではの教育を実践しています。 |
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情操教育 | 「合掌」して挨拶をする習慣を励行し、日常生活の中で礼節を身につけていきます。また、仏教行事や「淑徳の時間」で、仏教の教え、人としてどう生きるべきかを学び、共生の心を身につけます。 |
生者の善知識たれ
淑徳与野中学・高等学校の前身である淑徳女学校は1892年(明治25年)、校祖輪島聞声先生によって、東京小石川に創設されました。
嘉永5(1852)年 | 北海道松前郡に輪島太左衛門の三女として生誕。幼名は『こと』。 | |
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〃6(1853)年 | 米使ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航し、幕府に日本の開国を要求する。これを機に国内は幕末・維新の動乱期を迎える。 | |
慶応4(1868)年 | 戊辰戦争。260余年に亘る徳川幕府は瓦解しこの年、時代は明治となる。 | |
明治2(1869)年 | 戊辰戦争最後の戦場となった、函館五稜郭の戦いの惨禍は松前にも及び、校祖は「一夜にして死屍累々たる光景」に遭う。時に17歳。 | |
〃3(1870)年 | かねて輪島家の帰依する仏者・和田瑳門師に師事し、出家を願う。 | |
〃9(1876)年 | 出家の意志は堅く、校祖は和田師を介して上京すると、東京は本所(現在の墨田区両国)の回向院に入り、当時、一代の碩学として知られた福田行誡上人の弟子となる。僧名『聞声』を授かり、こうして25歳の校祖は本格的な仏道修行の生活に邁進する。 | |
〃12(1879)年 | 京都遊学。浄土宗総本山知恩院が運営する宗学校に入学。 | 輪島聞声先生(後列右)と恩師福田行誡上人(前列右)。<明治16(1883)年> |
〃21(1888)年 | 行誡上人の遺訓「生者の善知識たれ」を心の指針に、京都で勉学に励む傍ら、校祖は、思いを同じくする後進尼僧の育成を決意し、知恩院山内に尼衆学校を開いてその教育にあたるも、同年12月、浄土宗より東京本所にある感応寺の住職に任ぜられ、やむなく帰京する。 | |
〃25(1892)年 | 淑徳女学校創立。校祖41歳。尼衆学校での経験を基に、教育の重要性を知った校祖は、ここに広く一般女子を対象とした、仏教の精神を建学の理念に置く普通学校の設立に奔走し、ついにこの年、文京区小石川の伝通院内に淑徳を開校する。 | |
〃26(1893)年 | 淑徳婦人会の結成。これは、学校を開放して毎月例会を開き、そこに外部の多くの女性たちを集めて例えば各界名士の講演を聴くなどといった会で、同会の活発な活動はやがて、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の中にその名が載るほどに有名となる。 | 東京小石川の伝通院境内に開かれた淑徳女学校で女生徒たちに囲まれる輪島聞声先生。<明治36(1903)年頃> |
〃36(1903)年 | 校祖51歳の時、淑徳女学校を浄土宗に寄贈。以来同校は浄土宗立校となる。猶、校祖は引きつづき同校の監督に任ぜられる。 | |
〃38(1905)年 | 文部省(当時)より『淑徳高等女学校』として認可を受ける。 | |
〃45(1912)年 |
さしもの校祖もこの頃より体調に不調を覚え、「(学校という)公器を私すべきではない」との決意から、60歳をもって淑徳を勇退。鎌倉に『念仏庵』を建て半ば隠棲生活に入る。まごころを こめてそだてし 学びやの |
夏目漱石の『吾輩は猫である』に『淑徳婦人会』の名前で登場。<明治38(1905)年> |
大正9(1920)年 | 4月3日、本所感応寺にて遷化。師・行誡上人の眠る知恩院に葬られる。67歳の生涯であった。 |
Not for him, Together with him
淑徳女学校の第8代校長・長谷川良信先生は、1946年(昭和21年)、埼玉県北足立群与野町(現在のさいたま市)に淑徳与野高等学校を設立しました。
明治23(1890)年 | 茨城県西茨城郡南山内村(現・笠間市)に、士族・長谷川治衛門の五男として生誕。 | |
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〃29(1896)年 | 6歳の学祖は茨城県真壁郡の得生寺に入り、住職・小池智誡上人の元で得度を受け、爾来、同寺で修行の少年期を送る。 | |
〃43(1910)年 | 旧制の芝中学校を経て宗教大学(現・大正大学)の予科に入学。大正3年に同本科を卒業するが、この間、当時、浄土宗の先覚的な名僧であった渡辺海旭師に師事し、その薫陶を得て仏教社会事業に志をいだく。この社会事業とは今日の社会福祉のことにほかならない。 | |
大正8(1919)年 | 実践的宗教家そして教育者でもあった学祖は、そこに福祉をも統合した事業を展開すべく、東京西巣鴨の地にセツルメント施設『マハヤナ学園』を設立。地域社会の福利厚生に邁進。時に28歳であった。 | 長谷川良信先生が東京巣鴨にマハヤナ学園を組織。<大正8(1919)年> |
昭和6(1931)年 | 大乗学園・巣鴨女子商業学校(後の淑徳巣鴨中学・高等学校)を同地に創設し、41歳の学祖は、更に女子教育の発展を推進する。 | |
〃19(1944)年 |
学祖54歳。浄土宗より淑徳高等女学校の第8代校長に任ぜられる。 ※折から戦局はいよいよ悪化し、東京をはじめ、日本の各都市への米軍の空襲が激しさを増すなか、小石川の淑徳高等女学校の生徒の多くが勤労動員として、埼玉県北足立郡与野町小村田(現・さいたま市中央区本町)にあった日本ピストン社の工場に動員され、そこで寄宿生活を送ることになる。これが、戦後の昭和23年になって、この地に淑徳与野高等学校が開校される、まさにその契機となった。 |
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〃21(1946)年 | 空襲で校舎を焼失した淑徳高等女学校、すなわち今の淑徳中学・高等学校を小石川の故地から板橋区前野町に移転する。 | |
〃23(1948)年 | 北足立郡与野町小村田に淑徳与野高等学校を開校。また、板橋区前野町に淑徳幼稚園、翌年には淑徳小学校を開設。 | |
〃24(1949)年 | 浄土宗立系淑徳各校と、大乗学園との合併が文部省(当時)により認可される。やがて26年には私立学校法の成立にともない、ここに『学校法人大乗淑徳学園』が発足し、61歳の学祖はその初代理事長に就任する。 |
創立当時の淑徳大学(下)。秩父宮妃殿下の台臨を仰ぎ開学式が行われた(上)。 <昭和40(1965)年> |
〃25(1950)年 | 淑徳短期大学(現在の淑徳大学短期大学部)開設。 | |
〃40(1965)年 |
淑徳大学創立。学祖75歳。 福祉の研究と発信また実践者の養成など、いわば総合的機関としての淑徳大学の創立は学祖の生涯の集大成ともいうべき事業で、これを学祖は千葉県千葉市にある大巌寺の地に開校する。 |
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〃41(1966)年 | 8月4日、東京女子医科大学病院で病気療養中のところ、亨年76歳にて遷化。 |